『邂逅』
脇道に置かれた馬車を、緋の月が煌々と照らしていた。
屋根の上の少女は、少女は、その身に降り注ぐ月光を、触れれば折れてしまいそうな華奢な体で、水浴びをするように全身に受け止める。
風がそよぎ歌うたび、緋色に染まった少女の髪は舞い踊るように揺れた。
「良い月だよねぇ。そう思わない? 姫」
長い沈黙を破り、言葉を発したのは、外見にそぐわぬ白髪を持つ若い女性だった。身体は小柄で、一見すると少女よりも幼く見えるが、これでも彼女は少女よりも、かなりの年月を生きている。
足元まで覆うローブを纏ったその姿は、どこか魔法使いを連想させるが、彼女は魔法使いではない。
「はい。月光浴は、やはり、緋の夜に限りますね」
眼を閉じたまま少女は答える。
広げた両腕は、長すぎる袖によって隠されてはいるが、生地越しにそのか細い腕の輪郭が見て取れた。
長すぎる袖に対し、裾は膝下を過ぎたほどで、全体のバランスは違和感が残る。だが、その違和感さえも薄らいでしまうほど、彼女の持つ傘の存在感の方が大きかった。
右袖にしっかりと捕まれた朱色の傘は、少女の身の丈ほどもある柄と、柄の半分を覆う朱色の布のような物で構成されている。
「でも、月光浴なんて、洒落たお誘いですけど、知ってます? 緋の光は、体に毒らしいです。ちなみに、この世界の人なら誰でも知ってる事らしいですよ? シトアさん」
そこまで言うと、少女は改めてシトアに向き直る。
顔は無邪気な子供の様に笑ってはいたが、傘は右手にしっかりと握られていた。
シトリはそんな満那の警戒心を見抜いたのか、口元を軽く歪ませる。
幼さの残る顔に、妖艶な笑みが浮かぶ。
「シトアじゃなくて、今の私は……、まぁシトリとでも呼んで頂戴。アンタが初めてだよ。私をシトアじゃないって見抜いたのは」
そう言ってケラケラと笑うシトリ。
羨ましい。
満那は不意に思った。
感情を素直に表現できるのは、心に怯えが無いから。強い心を持っているから。
それに比べ、自身にはそんな強さは無い。
目の前にある希望さえ、恐怖という枷、過去と言う束縛が、彼女を遠ざける。
「まぁ、警戒しないで。こうやって呼び出したのはちょっと話がしたかったからだから」
他愛も無い雑談。
好きな食べ物、七色に変わる夜空の月について、パグの印象、シトアの話。
そして、満那の知らないたくさんの世界の存在。
「そういうのをさ、総称で交差世界とか言うの。ちなみに、中心世界ってのは、地球って言う世界。私等の世界はその世界を底辺として逆さまの円錐上に世界がある。マリオネットは、ほぼ全ての世界にいるよ」
「異世界間て移動できるんですか?」
「できるだよそれが。例えば、海ばっかの世界とかも――」
知らず知らずのうちに、満那はシトリの話す異世界の話にすっかり引き込まれていた。
施設以外の記憶の無い満那にとって、その話は夢物語で、今なら直ぐ傍にある現実だった。
それが余計に満那の心を惹き付けていき、満那が警戒心は、砂時計の砂が落ちていくように崩れていった。
「そいでさ、世界にはそれぞれに国があって、皇女と皇子がいるんだ。その中からたった一人が七つの交差世界を統べる者として選ばれるんだ」
「凄いですねぇ。皇女なんて、大変そうです」
「ちなみに、皇女とかっていうのは便宜上の名称でさ、性別は関係無し。資格者は、身体のどっかに痣を持ってるって話」
「へぇ〜。そうなんですか」
感心したように頷く満那。が、その顔は間を置かずに、すぐに真剣なものへ変わった。
同時に、仄かに紅く染まる緋の月光を全身に浴び、シトリはゆっくりと立ち上がった。
その顔に、今までのような子供っぽい笑顔は無い。
冷血な、例えるなら暗殺者のような、冷酷な笑み。
その視線に、知らず知らずのうちに、満那は一歩退いていた。傘を握る右手にも、自然と力が篭る。
「時間が無いし、ちゃっちゃとあなたに聞いておこうか。満那ちゃん、アンタは、マスターを守る為なら人が殺せる?」
シトリの言葉に、茶化したような雰囲気は微塵も無い。
試すような、何の感情も篭らない言霊。
「別に、理由があっても人を殺しちゃいけないなんて言葉は期待してないよ。これは、アンタの覚悟を聞いてんだ」
全身から汗が噴出し、体温を急激に下げていく。
芯から凍えそうなほど寒いのに、それが奇妙に心地良い。
静かで、冷徹で、混沌とした衝動。
「今直ぐに答えを出せとは言わない。けど、アンタは遠くない未来、一つの決断を迫られるだろうさ」
両足の感覚が、潮が引くように消えていく。
立っているのがもどかしい。
今すぐにでも、蹴りだしたい。
「とりあえず、会って見て分かった。アンタはまだ目覚めてない。今なら、ギリギリで引き返せる位置にいる」
霧が深まるように、感覚が消えていく。
声が、朧にしか聞こえてこない。
「アンタなら、切鈴の呪いに打ち勝てるかもしれないね」
自嘲気味に、それは笑った。
頭に霞が罹った様に、朧気になって行く。
「じゃぁ、機会があったらまた会おうぜ。切鈴の姫さんよ」
言葉と同時に、満那は糸の切れた人形の様に倒れこむ。
その音を合図にシトリは静かにその場を後にした。
「シトアが珍しく人に興味を示したと思ったら、やっぱし厄介ごとか。それも、血傘の持ち主」
呆れたようにため息を吐くと、シトリは静かに腰を降ろした。
小屋のように広い馬車の中にはパグと零夜が寝入っている。シトアの声を直に聞いたのだ。あと三時間は目覚めないだろう。
それに、目的の遺跡まであと数時間も走れば到着する。
今のうちに睡眠を摂らないと、向こうに着いてからではいつ眠りに就けるのかは分からない。
逆に、こうやって寝付ける程にこの世界は平和なのだ。
「にしても妙だね。時に干渉する技術、消えたギルド、死んだ筈の零那の捜索。何から何までおかし過ぎる。シトア、お前、何を知った?」
今は眠っているであろう、もう一人の自分。
シトリの知らない情報を持つ女性、永遠の名を持つシトア。
嘘を吐かぬ代わりに真も話さない。
「シトア……。お前は何を掴んだ?」
自問しても答えは出ない。
シトアの興味は、自分だけ。
シトアは、誰にでも心を開くけど、誰にもココロを見せない。
「シトア……。いつまで鬼のいない鬼ごっこをするつもりだい?」
膝を立て、その山に顔を埋める。
ローブに染み付いた潮の匂いが、鼻腔をくすぐる。
シトアと違い、シトリはローブを場所ごとに代える。
一箇所に留まる事の多い彼女のローブには、様々な匂いが思い出と共に染み付いていた。
その中でも、潮の匂いの染み付いたこのローブはお気に入りの一つだ。
「ミリィ、元気かなぁ」
匂いと共に、海に程近い場所に住んでいた旧友を思い出す。
潮と陽光に焼けた、潮の匂いのする快活な女性だった。
彼女とはよく海で遊んだものだ。
「ホント、あの頃は楽しかったなぁ……」
瞼が重い。
意識が、深淵の縁に立っている。
眠りに就かぬ様、ささやかな抵抗を試みるも、意識は既に夢の海へと漕ぎ出していた。
静かな寝息が聞こえてくるのに、そう時間はかからなかった。
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